冬のおわりに(詩)
彼岸のかなたに水は溶け出し、世界は四季を悟る。
帰り道は行く道。日々、日々、へと転移するわたしに戻るところなどない。
殺してあげてもいいよ。それがあなたにとって、生きることよりも、死ぬことよりも雪解けのようであれば。
芽吹き、鳴き始め、動き回り、生きることに追いやられ、死が、死んでいく。自らピリオドを打つように、死を穿つ。忘れていたことを迎え入れたことも忘れて。彩り、それがまた日々を作ると錯覚して。薄氷の上に残した足跡、わたしにだけは馴染まず、世界に溶け出して、図々しく生命が生い茂る。何も知らないものたちと、何もかも忘れたものたちが。冬が終わる。また陽射しが全てを焼き尽くし、祈りに全てを追いやるその日まで。
大喜利或いはブコメ養成講座2
お久しぶりですグースピです。引っ越しが終わってやっとこさ落ち着いたので前回の続き行きたいと思います。前回は大喜利におけるボケとは何か。今回はプロが如何にプロであるか。剥き出しのセンスだけではない、大喜利の大きな流れの作り方について。
セミプロとプロのお笑いの大きな違いは流れを読めるか、あるいは作れるか、掴めるかというところにある。セミプロは大喜利に対して、ただ自分の一番面白いと思う答えを出しておけばいい。ベストな答えは確かに面白いだろう。でもそれは単発だ。そして大体単調だ。それが積み重なったところで、それはセカオワのアルバム構成のようなものにしかならない(セカオワ本人達もアルバム構成を「ベストを並べる」みたいなこと言ってた。いまは知らない)。かたやプロは答えの流れによってボケの種類を細かく切り替え、セミプロにとってはそれほどではないセンスの筈の答えでもドカンドカン笑いを取っていく。
では、その流れとは何か。
最新のipponグランプリで分かりやすかったのは「初めてドラゴンを退治しに行くのですが、アドバイスをお願いします」だろうか。これは一般回答も多かったと話されていたが、そこらへんの解説も含めて。
まずはこのお題に答える際の着眼点について。「ドラゴン退治」がキーワードになる。この壮大なファンタジーというフリを、如何にしょうもない現実というボケに落とすか。非常に分かりやすい構成のお題となっている。一般だろうがプロだろうが誰が見てもとりあえずそうボケればいいと分かる良題である。ここでざっと回答の流れを見ていきたい。
まず若林さんが「着いたらまずファストパスを取った方がいいよ」と答える。そして秋山さんが「一人だと絶対無理なので何人かでレンタカーを借りてった方がいいかもね」と答え、塙さんが「ではまずこの屏風からドラゴンを出してみよ」と答える、若林さんが「口の中にマヨネーズを入れると火を吹かなくなるよ」、塙さんが「思ったより全然小さいから虫カゴが必要だよ」、ジュニアさんが「いや、昨日林んとこのオカンが倒したんやて」「ドラギョンのことは詳しくないのでギョめんなさーい」「倒した後の囲み取材が面倒くさいねん」、中だるみ飛ばして今野さんの「お前大学どうすんだよ」、とまあここまでにしとくが、プロらしい美しい駆け引きがここにはあるのである。
それぞれの答えの大きな着眼点に注目して欲しい。最初の若林さんの答えはドラゴンをアトラクション扱いにし、秋山さんはレンタカーでピクニック気分に落とし、塙さんは童話とかけて、若林さんは物足りない防火術をアドバイスし、塙さんが大きさに着目して小さく扱い、圧巻の三連続ジュニアさんは近所のオカンレベルの出来事にして、聞く当て違いのキャラクターに答えてもらい、大して大事じゃないアフターケアですかし、今野さんはそもそも質問者への心配を。全員が違う着眼点へのアプローチなのである。例えば、若林さんのようにドラゴンをアトラクション扱いにする場合もいくつか答えはある。「ファストパス持ってった方がいいよ」「2時間待ちだからサメ行った方がいいよ」「どの遊園地のやつ?」などなど答えられるが、同じ着眼点は飽きられるのが非常に早い。だから次々と聴いてる人の目線や思考を新鮮なところに動かしまくり効率よく一本を取っていく。そしてその中でも着眼点の中で一番いいと思われる答えを手早くめまぐるしく出していく。このお題で今野さんが答え辛そうだったが、これくらい恐ろしいスピードで手数は潰されている訳である。だからこそこんな中で(違うブロックではあるが)サンドイッチマンの伊達さんのようにそんなしがらみ関係なく自分の色をマイペースに出し続けるというのも観客にはいい目線の切り替えになっていたのである。
いつ見ても恐ろしいハイレベルな世界がそこにある。インターネット大喜利とは違って時間の流れ続ける場所だから、ロジック、発想のスケール、キャラクター、その全てを掌握しなければ優勝出来ないホントに厳しい大会である。時々参加する素人が周りについて行けてないのは、これが理由だ。セミプロとプロの違いそれは流れを読む、つまり着眼点をしっかり把握し答えを出していく巧さにあるのだ。
大喜利或いはブコメ養成講座1
今日は笑いの(あくまでピンポイントな)ロジカルの部分の解説をしたい。野暮だとは思うが、野暮を気にする時代でもないので。先日、はてなブックマークでこの記事にコメントを残した。
http://omocoro.jp/kiji/83042/
【世界初】大喜利ができる人工知能の開発者に会ってきた | オモコロ
コメントの内容はこう。
afieldof15 のコメント / はてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/entry/289855542/comment/afieldof15
大喜利にはロジカルな答え方がある。それはあくまで一つの答え方に過ぎないが、センス(飛び抜けた発想)がなくとも考えれば捻り出せる答えがある。そのいい例がこれだ。解説していきたい。
笑いの基本にはフリとボケの流れがある。緊張と緩和に言い換えてもいい。ついでにツッコミはそれをフラットに戻す作業だ。簡単にいうとテーマを設定し(フリ)、その正答とは線で繋げることが出来る限りの正反対の出来事(ボケ)を言う、あるいは起こす。ツッコミはそこで起きたズレを良識ある第三者がフラットにし、次のフリに移しやすくする。そんなところだ。それを踏まえて今回のお題だ。
「90歳のおばあちゃんがネットで人気者に、何をした?」
このお題を見た時にまずやることは、どのワードが一番フリとボケをやる中で振れ幅が大きいかを考えることだ。記事内でインタビュアーは「ネットで人気者」というワードに焦点を合わせたものの、90歳のおばあちゃんを活かせず上手くいかなかった。かたや人工知能大喜利βは「90歳のおばあちゃん」に焦点を合わせた。「90歳」という気の遠くなるような歳月を、「おばあちゃん」という基本的に枯れてる筈の性をフリにした。その答えが「性転換」というシンプルかつ深いボケである。考えれば考える程に普遍的な「90歳のおばあちゃん」が可能な限り各々の中でイメージの真逆まで変化していく。まず90年我慢しなければならなかったのか、目覚めたとしたら90歳で何があったのか、急におばあちゃんをおじいちゃんと呼ばなきゃいけないのか、おじいちゃんとの関係性はどうなるのか、てかアソコ生やすの?服は?口調は?などなど聞いた人達が生み出すあらゆる何故と今更。この実現可能な大きな乖離がその場の笑いに繋がっていくのだ。そしてこれだけ普遍的なイメージから乖離していれば、ネットだろうがテレビだろうが人気者になることも容易い。ロジカルな考えのボケとしては一つのエレガントな正解だろう。
ちなみに「ネットで人気者」に焦点を合わせたとして出来るロジカルな答え方もある。例えば「葬式のクラウドファンディング」とか「好きなことで、死んでいく」なども間違いではないだろう。おばあちゃんとはかけ離れたネットらしい若者向けのイケイケな横文字や標語を使うのがいい。ただ、そこまで浸透していないワードでもあるので無難に90歳のおばあちゃんに焦点を当てた方がインターネットを延々考えるより楽だし強い。
もちろんこれは大喜利というモラルが低く対象が架空のキャラクターというシチュエーションの中に閉ざされてるからこそ出る笑いであり、現実のネットで90歳のおばあちゃんが性転換してネットに出て来た時に笑ったりする訳ではない。そこは分け隔てて頂きたい。尊厳はその方向性を理解した上でできる限り尊重すべきだ。大喜利ブコメ?自分としては基本的に他人の尊厳を平気で欲望によって傷つけた奴のとことかジョークをしっかりジョークとしてやってるとこにしか行ってはないかな。だから僕がいい人な訳ではない?その通り。でも対象のその人は大喜利のお題としていい免罪符になってしまうんだよ……
今日はIPPONグランプリがある。それを録画しといてゆっくり見て、もし気が向けばいかにあの芸人達がプロ中のプロかをざっくり解説したいと思う。彼らとセミプロ(大喜利サイトで上位・ラジオのハガキ職人)にどうして差がつけられるのかというのも書きたい。